守破離はげんじと俺らのためにある

げんじって知ってる?

知らない人はYouTubeで彼の動画を10秒だけでいいから見て欲しい。

ファッションYoutuberの中では最大手といってもいいぐらい有名な人なんだけど、たぶんこれを読んでいる人の大半はこの人の服装を見て

「ダサい」

「つまんない」

って言うと思う

理由は単純で、個性がなくて所謂量産型ファッションの完成されたモデルだから。

 

ここで我々の感性と、げんじと、それから世間一般の目をよ~~く考えてからこの文章を読んで欲しい。

自分含め周りの人には確実にオーバーグラウンドに対する逆張り意識がねばっこくこびりついているから、WEGOとか、GUとか、なんとなく嫌いだと思う。あとベロア地の服とか、フィッシングベストとかね。げんじはまさにそこを突いてきて、今の我々が見たら「ウゲ~!!」ってなると思う。

でも大半の人ってこの「ウゲ~!!」を教科書にしたことがあると思う。大半は盛ったかな、5割いかないくらい。

服の話するのめちゃくちゃ恥ずかしいんだけど、音楽と同じかそれ以上に好きだから書く。

人の服装が出来上がるまでってかなり複雑な過程を踏むと思うんだけど、

親に買ってもらった服を着る→服を自分で買ってみるor何らかの媒体を参考にして服を”選ばされる”→失敗するor納得いかなくなる→自分に似合う服を見つけるorこれでいいやってなるor憧れの服装の人、型を見つける→試行錯誤…という変遷になると思う…わからんけど。(どの過程においてもどっかしらで誰かから服装を指摘される、というのも含む)

けど誰しもが何年か前の自分の写真をみて「ウゲ~!!だせえ!!」となったことがあると思う。

たぶんこれの繰り返しで自分の服装って煮詰まっていくと思うし、好み、憧れの対象も大なり小なり変わっていくと思う。

でもどこかで、げんじ(オーバーグラウンドの量産型ファッション)の決まりを守る、守らされることになる。汚らしい服は着てはいけない。サイズの合わない服はダメ。オーバーサイズにしとけ。柄物は避けろ。言ってること自体は大いに正しい。でもどれも”最初のうちは”、”慣れないうちは”という枕詞があると思う。

そりゃなんの考えも、こだわりも好みもなしに伸ばしっぱなしの髪で柄シャツを着ていたら不気味でしょうよ、高身長の白人を除いて。

日本人に生まれた以上プロポーションなんて1握りの人にしか与えられない才能でありチートなんだから、我々凡夫は自分を服で武装しなければならない。(別に強迫観念ではない)

だから好みやこだわりが顔を出してくるまでは、げんじに従った方がいい、たぶん。

稀に好みのみを貫き通してかっこよく仕上がる人がいるが、そんなん運ゲーだろ。と思う。

げんじを見ていたころはパーソナルカラーだとか、YシルエットだとかAシルエットだとか色の組み合わせだとか熱心に学んで俺知ってんだぜお前らとは違うんだぜみたいなイキり方をしてたけど、それはそれで糧になっている。

ただげんじに未だにしがみついているひと、げんじでいいや、となってしまった人はすこしもったいないとおもう。たぶん人から服装で距離を置かれる事はなくなるが服で人を惹きつけることはできない。絶対。清潔感ぐらいしか残らない。

どっかで破が必要。めちゃくちゃ見た目が好きだけどすこし挑戦的なデザインの服に出会ったり、大好きでかっこいい芸能人、アーティストに出会ったりして初めて自分の価値観が破壊されて、げんじの教えを破る時がくる。

そこから守破離の離に至るまでは結構すんなりいくんじゃなかろうか。

自分はもちろん親に買ってもらった服を着ていたし、サイズ感のよく分からないGジャンと7分丈のadidasのジャージをかっこいいと信じて疑わなかったし、対してHiphop知らないのにヘッズみたいな格好もしたし、スケボーヘタクソなのにスケーターみたいな格好もした。でもどれもあんまし心地よくなくて、今はアメリカのオタク、かアジカン聴いてる奴をコンセプトにして服を選んでいる。もちろんそのコンセプトを構成する素材になる服の好みも徐々に洗練されていって、Tシャツやらズボンの丈感とか、素材とか、シルエットとか、ズボンにタックは入っているか、ベルトループは太いのか、細いのかとかのめちゃくちゃ細かい好みも顕になってきた。前も同じようなことを書いたけど、チェックか太いストライプのシャツ、袖にたまりがあるジャケット、丈の短くて肩幅の広いナイロンジャケット、太くて素材がゴツいズボン、アシックスの靴が好き。どれも色は土見たいな色が良い。

自分で自分の服は好きだし周りの人もかっこいい服装の人が多いから、音楽の話も服の話もできて新潟大学はすごくお得だと思う。

ニットベストと半袖パーカーは、死ね。